淡河城

別名 上山城 付近住所 神戸市北区淡河町 現在 淡河城跡市民公園
碑・案内板アリ 日本城郭大系


淡河氏→
有馬氏
淡河の里を眼下(比高差 約20m)に一望できる川岸段丘上端に築かれたこの城は淡河氏代々の居城でしたが天正6〜8年(1578〜1580)羽柴秀吉による三木城(別所氏)攻めの後は有馬氏 一万五千石の居城として慶長6年(1601)まで淡河と共に栄えてきました。城の遺構は現在、本丸と天守台、堀を残すだけとなっています。幅15m、深さ3〜5mの堀に囲まれ本丸の南辺に東西50m、南東には竹慶寺跡があり境内には城主 淡河氏代々の墓碑があります。文治元年(1185)淡河則長が淡河城を築城したと伝えられる。承久4年(1222)淡河庄は北条時房の所領となり、地頭職として北条一族の右近将監成正が派遣され淡河氏を名乗った。南北朝時代、淡河氏は後醍醐天皇の南朝方についたが、北朝軍の播磨守護職の赤松氏に取り囲まれ落城した。しかし、その後も勢力を保ち、赤松一族から養子を迎え、赤松氏に属した。嘉吉の乱(1441)のとき、赤松氏を滅亡させた但馬守山名持豊に降伏し、山名氏の支配下となった。応仁元年(1467)に赤松政則によって赤松氏が再興され、応仁の乱に山名氏から播磨を奪回した際、淡河氏は赤松方に復帰し、おおいに活躍したと伝わる。長享2年(1488)別所則治が三木城を築き、東播八郡24万石の守護代になったので、淡河氏も別所氏に属した。天文23年(1554)有馬郷の有馬重則によって淡河城は落城したが、永禄元年(1558)に元に戻り、淡河氏最後の城主定範まで続いた。やがて、天正6年(1578)三木城主別所長治が織田信長に背いたため、天正7年(1579)羽柴秀吉勢に取り囲まれたが、秀吉勢のなかに牝馬を放って混乱させ、秀吉勢を敗走させたことは有名である。その後、一族郎党は三木城に入り、天象7年9月、秀吉の三木城攻めにより、淡河氏は滅亡した。淡河城は、有馬法印則頼の居城となり、山崎の合戦、長久手の合戦の功により1万5千石に加増され、淡河町は、1万5千石の城下町として、おおいに栄えた。

淡河城跡碑 復興櫓 淡河家廟所


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